武士一覧

空手を「手」の時代から守り継承してくれた偉大な武士たち。
そしてここに名前のない者たちも無視できない。彼らがいたからこそ今僕らは空手ができる。

  参照:沖縄空手会館展示
   
1500
京阿波根実期
不明
16世紀後半、琉球王国時代の伝説上の武術家。
文献「球陽」に記録のある最古の素手格闘術の武術家と言われる人。
1600 湖城親方(唐名:蔡肇功さいちょうこう)
1656-1737
湖城流始祖。中国、清の皇帝より中国兵法の皆伝書を授与されたと言われる。
1700 西平親方
不明
18世紀の使い手。
  具志川親方
不明
18世紀の使い手。
渡嘉敷親雲上
1743-1837
18世紀の使い手。
添石良徳
1772‐1825
 添石家は琉球王国の武芸指南役。
「周氏の棍」「趙雲の棍」「添石の棍」を総括して添石流棒術といわれる。
 
真壁朝顯
1773-1829
進貢使節の一員として北京へ行き中国拳法を修めたと言われる。
真壁チャーン(小型の鶏)の異名をとった。
  佐久川寛賀
1786-1867
琉球王国時代の空手の大家。
「彼のあとに彼なし。彼の右に出るものはいなかった」と讃えられる武術家。
中国に留学し琉球国学の教師でもあった。
 
  知念思可那
1797-1881
琉球王国時代の武術家。
青年時代進貢船に乗り中国福州で武術修行。
佐久川寛賀が中国から持ち帰った六尺棒とサーシを愛用し80歳になっても毎日鍛錬を欠かさなかったと言われる。
 
1800 宇久嘉隆
1800-1850
照屋規箴とともに泊手の始祖と言われる一人。
身体を堅固にしていかなる強敵に対してもくじけないよう日々鍛錬して敵の攻撃を受けても少しも動じることがない強力な防御力と強靭な肉体を誇った。
照屋規箴
1804-1864
泊手の始祖のといわれる一人。
松茂良興作、親泊興寛の師。空手の伝授には弟子の人格を重視し、技を超越した精神面を大切にして仁・義・礼・智・信の五常をわきまえよと教えた。
 
松村宗棍
1809-1899
首里手の大家。「武士松村」と呼ばれた。
位(品位、品格にあふれている)の松村として沖縄空手の歴史に名高い。
中国や薩摩に度々渡航し様々な武術を研鑽、示現流の伊集院弥八郎に師事し免許皆伝を授与。
糸洲安恒や安里安恒ら沖縄空手を代表する著名な弟子を多数送り出している
 
1810 多和田真睦
1814-1884
知花朝信、糸洲安恒とは姻戚関係。
三尺棒を得意とし「多和田棒」を編み出した。
蔡昌偉
1816-1906
湖城流2代目。
棒術と杖術の名手。湖城流棒術を伝授した。
 
仲井間憲里
1819-1879
 中国北京で清国「王室護衛官養成所」の長、劉龍公に師事。
帰国に当たり術技の解説書「武備誌」、ケガや軽い病に対処する「養生法」、天候を見定める「占星術」などを持ち帰る。
家訓は「門外不出、一子相伝せよ」
 
1820 安里安恒
1827-1906
琉球王国名門の出身。
首里手の松村宗棍に師事し糸洲安恒とは兄弟弟子の関係。
尚泰王の近くに仕え四書五経にも通じた文武両道の人。
唐手、古武術、剣術(示現流)をお極め那覇手や泊手にも通じていた。
松茂良興作
1829-1898
泊手中興の祖。
はじめに宇久嘉隆に学び次に照屋規箴にも教えを受けただ一筋に沖縄空手を究めた。
琉球処分前後の苦難の時代を乗り越え「泊手中興の祖」「義烈武士松茂良」として人々に敬慕される。
 
1830 糸洲安恒
1831-1915
首里の士族出身。
松村宗棍に師事し、生涯を空手に打ち込む。
1908(明治41)年10月、県学務課に「唐手十箇条」を提出。
空手が多くの人に親しんでもらえるよう平安初段から5段までを創案した。
学校教育としての空手の普及発展にも貢献した。
 
湖城以正
1832-1891
 主に琉球王国時代に活躍した湖城流3代目。
父の蔡昌偉とともに中国に渡り中国武術を修得。中国ではイワーに師事し師範代まで努め名人といわれた。
 
金城真三良
1834-1916
 金城大筑(王府の役人の意)と呼ばれる。
釵術の達人。「武の極意は心にある」「古武術の心は防衛であっても先制攻撃ではない」が口癖だったという。
弟子に屋比久孟伝、喜納昌盛らがいる。
 
知念真三良
1834-1925
山根流棒術の創始者。
18歳の時、津堅島の棒術の達人のところで修行。得意技は「周氏の棍」「佐久川の棍。「白樽の棍」「米川の棍」
弟子に屋比久孟伝、大城朝恕、知念正美、瑞慶覧町徳、与那覇正牛らがいる。
 
山田義恵
1835-1905
泊村出身。照屋規箴、宇久嘉隆に師事。宇久の影響か体を硬くするのが得意技。
松茂良興作、親泊興寛と泊三傑といわれた。
琉球国最後の尚泰王による冊封が無事終了した祝宴で活躍し褒美をたまわった。
 
1840 新垣世璋
1840-1920
屋部親雲上に師事し王府時代は通時を勤めた武術家。琉球国最後の王、尚泰が冊封後に催された御茶屋御殿の祝宴で唐手や古武術を披露した。
もっとも得意とした型は「雲手」
久米綱引き後の騒動では六尺棒を豪快に振って鎮めたという武勇伝がある。
 
喜屋武朝扶
1843ー?
松村宗棍に指導を受けた武芸百般の人で喜屋武朝徳の父。
琉球処分のとき琉球国最後の尚泰王の東京詰め家扶となり支える。
尚泰王死後、朝徳ともども帰郷し久米村で三線細工を生業として暮らす。
知花朝章
1847-1929
棒術と釵術で非凡な才能を発揮した武術家。
知花クーサンクーの型は華やかでメリハリが効いて美しかったと言われている。
琉球処分後も尚家に忠誠を尽くし続けた。
1850 東恩納寛量
1853-1915
剛柔流開祖宮城長順の師。那覇手の大家。
福建南拳の大家ルールーコーに支持したといわれる。
10数年の厳しい修行のあと師範代を務めるほどの力量に達し1880(明治13)年頃帰国したといわれる。
1900(明治33)年頃から自宅道場で中学生らに指導を行う一方、県立水産学校、那覇区立商業学校で唐手師範を努めた。
後に自分の流派を立てた宮城長順や許田重発などをはじめ多くの優秀な人材を育てた。
桑江良正
1856-1926
松村最後の弟子。
直筆の「松村の遺稿」を与えられた。
蹴り技に優れ、足武士といわれた。琉球処分直後に琉球王国最後の尚泰王が東京に行く際、警護役として同行した。
 
本部長勇
1857-1927
 本部御殿手開祖。首里手の大家、本部朝基の兄。
一子相伝の武の技法は初歩から同一の術理で組み立てられ、徒手の術も武器の術もすべての動きに共通するという臨機応変の極意技に仕上げた。
 
1860 矢部憲通
1866-1937
 沖縄最初の陸軍中尉となった唐手家。
師は松村宗棍と糸洲安恒。
除隊後、県師範学校の体育教師となり、空手の指導を開始。
1919(大正8)年アメリカへ。以後8年間アメリカ各地を視察。
帰路ハワイで唐手の演舞と公演を行った。その後「沖縄県空手道振興会」創設に参画するなど、空手の普及・発展に寄与した。
 
義村朝義
1866-1945
唐手の他、棒術・剣・弓術・馬術・書道・絵画・歌三線など武芸百般に通じた人。
17,8歳頃、松村宗棍に、22,3歳頃東恩納寛量に学ぶ。
「武道の奥義は心丹の錬成こそ基本」との悟りを得る。
山里(山田)義輝
1866-1946
 松茂良興作の弟子。松茂良より「泊手は平和を愛する君子の武術である。ビブを志すものは心が正しくなくてはならない。武道家は立派な型を遵守し、構成に伝承することが大切である_と教えられた。  
花城長茂
1868-1944
空手に確固たる信念を持った首里手の大家であり文武両道の人。
松村宗棍と糸洲安恒に支持。陸軍に志願入隊し、中尉で退役後沖縄県中学校で師範代を務める。その後、安里で道場を開設し空手の指導・普及に尽力
 
  船越(富名腰)義珍
1868-1957
松濤館流の祖。
安里安恒や糸洲安恒に師事し、首里手の伝承者を自負。1916(大正5)年、本土で初めて、京都武徳殿で又吉眞光とともに唐手を演武。東京の大学を中心に空手を広め、空手の普及に貢献した一人。
 
1870 久場興保
1870-1942
松茂良興作の弟子。身軽で跳躍力に優れていたので「久場小サールー」と呼ばれた。その武術は唯一、佐渡山安香に伝えられたといわれている。
本部朝基
1870-1944
「ティージクン武士(拳の強い人)」と呼ばれた、鶏口拳の使い手。12歳の時、糸洲安恒に学び 、掛け試しで実力を磨き、実践手の中で「先の先」を知る。外国人拳闘家との試合で名を馳せる。  
喜屋武朝徳
1870-1945
6歳頃から父、朝扶の手ほどきを受ける。その後、首里手の松村宗棍や糸洲安恒、泊手の親泊興寛に学ぶ。40歳を過ぎてから、警察署員や学生、教員志望者、近隣の青年に指導を開始。生涯空手の波乱の人生を送った。  
伊波興達
1873-1928
松茂良興作の弟子。本部朝基の掛け試しを受けたが、避けたという逸話が残っている。興達の武術は仲宗根正侑に伝承された。  
上地完文
1877-1948
上地流開祖。1897(明治30)年中国福建省に渡り武術修行を開始。
虎形拳の名手、周子和に師事し免許皆伝を得、現地で道場を開設。
渡中13年を経て帰郷、47歳の時、和歌山市で道場を開設「パンガイヌーン(半硬軟)流空手術研究所」を名乗る。
 
屋比久孟伝
1878-1941
糸洲安恒より空手、知念真三良より山根流棒術、多和田真睦と金城真三良より釵術の指導を受ける。毎日、朝晩に鉄下駄を履き、健身球を常に持ち、足腰を鍛えた。
上京後、明治大学で古武術を指導し「琉球古武術研究会」を創設。平信賢は唯一の内弟子。
 
1880 知花朝信
1885-1969
小林流開祖。1899(明治32)年15歳のころ首里手の糸洲安恒に師事。約13年間厳しい指導を受ける。1918(大正7)年、道場を開設し空手の普及に務める。1956(昭和31)年、沖縄空手界が大同団結して結成した「沖縄空手道連盟」の初代会長に就任した。
呉賢貴
1886-1940
白鶴拳の達人。中国福州から来琉。大正から昭和10年代にかけて沖縄の空手会に大きな影響を与えた。弟子は4名であったが、宮城長順とは親交を重ねた。  
徳田安文
1886-1945
糸洲安恒門下。城間眞繁、知花朝信と並び三羽烏といわれた。台湾で五祖拳や白鶴拳を学び帰郷後、沖縄県立第一中学校の職員となり唐手部師範を努めた。宮平勝哉の恩師の一人。ウーセーシとクーサンクーを得意の型とした。  
大城朝恕
1887-1935
 親泊興寛に師事。県立師範学校や県立工業高校で空手を指導。知念真三良から山根流棒術を学び達人となった。弟子思いの朝恕からは謝花健興、呉屋栄慎、呉屋栄喜、泉川寛得、伊地朝晨、真栄城朝徳ら数多くの空手家が育った。  
許田重発
1887-1968
 東恩流の開祖。15歳の頃、東恩納寛量に師事。宮城長順とは同門でよきライバル関係。県師範学校に在学中に屋部憲通より指導を受ける。卒業後、教壇に立ち小学校校長を歴任。定年退職後、大分県別府に移り少数精鋭主義の指導を続けた。  
又吉真光
1888-1947
 初代金硬流宗家。又吉家家伝の拳法と武器術を祖父眞珍より手ほどきを受け、安慶名直方より棒術と釵術を習得。呉賢貴の勧めで中国福州に渡り金硬老師と出会い虎鶴像形とサンチンを中心に福建少林拳の指導を受ける。  
宮城長順
1888-1953
 剛柔流開祖。11歳の頃から新垣隆功に唐手の手ほどきを受け、15歳の頃から東恩納寛量に師事。
準備・補助運動・器具を用いた鍛錬法や東恩納から継承した型の実践、研究して体系化した。
空手の発展と普及のため県内の各種学校、関東や関西の大学、さらに中国、ハワイでも指導した。
沖縄県体育協会唐手部長、日本武徳会沖縄支部常議員などをなどを歴任し大正末期から戦前期の沖縄空手界の中心的役割を担った。
遠山(親泊)寛賢
1888-1966
 糸洲安恒、東恩納寛量、板良敷朝郁らに師事。特に糸洲に見込まれ、徳田安文とともに特別に指導を受けた。さらに知花朝信からも寵愛を受け、知花クーサンクーの型を伝授される。すべて沖縄正統空手道であるとして生涯流派を名乗らず。
摩文仁憲和
1889-1952
糸東流開祖。13歳の頃、糸洲安恒の門下となる。その後、那覇手の東恩納寛量にも学ぶ。警察官として勤務しながら空手の修練を続け1918(大正7)年「空手研究会」を自宅に設立。1934(昭和9)年、大阪に道場「養秀館」を開設し「糸東流」を名乗る。

 

1890 城間眞繁 糸洲安恒の門下。型を理論的に深く研究し「空手道の型は一つひとつの動作がそれぞれ攻防の意義を持つものである」と述べている。1937(昭和12)年「沖縄県空手道振興会」が考案した基本型第1段から第12段の創作に中心的役割を果たした。
祖堅方範
1891-1982
松村宗棍より教えを受け継いだ”ナビータンメー(伯父)に師事。空手、古武術ともに速さ、力強さ、美しさで定評があった。1975(昭和50)年に結成された「少林流松村正統沖縄古武道協会」の会長に就任。白鶴拳、津堅の棒の名手といわれた。
小西康裕
1893-1983
 神道自然流開祖。剣道・柔術を修めて「良武館小西道場」を開設。船越(富名腰)義珍と出会い空手を学び同門の大塚博紀とともに約束組手を考案する。本部朝基と摩文仁賢和にも師事した。  
仲宗根正侑
1893-1983
伊波興達、松茂良興佐、真栄田義任、仲里睦弼に指示。1961(昭和36)年に発足した「沖縄古武道協会」に入会。生涯を空手の研究と指導一筋に打ち込み、戦後沖縄の空手界のご意見番として活躍した。
  神谷仁清
1894-1964
宮城長順に師事。戦後、武道復活のため「修練会道場」を開設し、棒術、空手の指導に尽力。医師であるとともに琉球古典音楽、琉球舞踊の保存育成にも努めた。武道、医療、芸能、教育の各分野で超一流の働きをした多芸多才の人。  
  平信賢
1897-1970
船越(富名腰)義珍に師事。船越の右腕として空手の普及に専念する。1929(昭和4)年より屋比久孟伝より古武術の指導を受ける。境涯を通して古武術の研究、普及、発展に努め沖縄に伝わる42種類の型を後世に伝えた。  
  友寄隆優
1897-1971
上地完文が和歌山に開設した社宅道場の一番弟子。
”先の先”で相手の動きを封殺し電光石火の正拳突きと蹴り技で相手に対した剛拳の人。
世に通じ、人に通じ、拳に通じ、漢方薬(打ち身薬)に通じていた。
政財界に太いつながりがあった。
  儀間真謹
1896-1989
   
  比嘉世幸
1898-1966
   
  知念正美
1898-1976
   
  新垣安吉
1899-1929
   
1900 上原三郎
1900-1965
当初、本部朝基のもとで空手修行。その後、友寄隆優の勧めで上地完文に師事。戦後、帰郷し1948(昭和23)年「修得会空手術研究所」を開設。生涯「サンチンにはじまってサンチンに終わる」を一途にその奥義を追求した。
新里仁安
1901-1945
   
上原清吉
1904-2004
 本部御殿手の本部朝勇に師事。朝勇から秘伝武術極意免状を授与された。
1951(昭和26)年「聖武館」を開設し本部流を名乗り「本部流古武術協会」を創設。
1965(昭和40)年には「全沖縄空手古武道連合会」を組織して理事長に就任。郷土文化としての伝統武術の普及発展に貢献した。
 
山田辰雄
1905-1967
   
玉城寿英
1905-1997
   
島袋太郎
1906-1980
玉得博康
1906-1985
   
玉村進
1906-1998
 上地完文の弟子。膂力と握力に非凡なものを発揮し「武と芸が形質ともに備わったとき空手は本物の武芸となる。そのことをよく考えるべだ」と説いた。
温厚篤実な人で実業家としても成功を収めた。
 
長嶺将真
1907-1997
   
島袋龍夫
1908-1975
   
赤嶺嘉栄
1908-1977
   
島袋善良
1909-1969
 
山口剛玄
1909-1989
湖城嘉冨
1909-1996
   
1910 比嘉佑直
1910-1995
   
仲井間憲孝
1911-1988
上地完英
1911-1991
 上地流空手道宗家2代目。
1927(昭和2)年より父であり師でもある上地完文の和歌山の道場で修業。26歳の時、免許皆伝となり大阪市西成区道場を開設。その後兵庫県尼崎市に道場を移設し、父が命名した「パンガイヌーン(半硬軟)流空手術研究所」を「上地流空手術研究所」に改名する。
帰郷後、上地流の普及、発展に邁進し多くの逸材を送り出した。
 
八木明徳
1912-2003
   
上原優希徳
1917-1998
   
渡口政吉
1917-1998
   
宮平勝哉
1918-2010
   
福地清幸
1919-1975
   
金城裕
1919-2013
1920 仲里周五郎
1920-2016
   
又吉眞豊
1921-1997
   
比嘉清徳
1921-2006
神道流創始者。
祖父仁和、父民真より空手の手ほどきを受ける。その後、岸本祖孝に弟子入りして個人指導を受ける。
1957(昭和32)年、知花朝信の紹介で知念正美に師事。知念より山根流棒術師範免許第一号を授与される。
本部御殿手の継承者上原清吉にも師事し素手で様々な武器に対応する取手術を修めた。
 
宮里栄一
1922-1999
   
仲里常延
1922-2010
   
大山倍達
1923-1994
   
赤嶺栄亮
1925-1999
   
祝嶺正献
1925-2001
新城清優
1929-1981